私がテニスの道に進んだきっかけは、他でもない「1996年ピート・サンプラスVSマイケル・チャン」のUSオープンの決勝の試合です。
当時、民放でも4大大会を放送しておりテニスを目にする機会がありました。たまたまテレビをつけた時に入っていたのが、マイケル・チャン選手の試合でした。
マイケル・チャン選手は身長175cmとツアー選手の中では、かなり身長が低いほうです。私が衝撃を受けたのは、恵まれない体格でも世界で戦っている選手がいることが驚きでした。彼のプレースタイルはコートを縦横無尽に走り回り、最後の1球まであきらめないプレーです。
どんなに相手が早いサーブを打っても、どんなにコースが厳しいところにボールが来ても、決して1球も諦めることなくボールを追いかけていました。
絶対王者であるピート・サンプラスではなく、私はマイケル・チャンのプレーを見てこんな風になりたいと強く思ったのが始まりです。
それまで、自分から何かをしたいと思ったことは無かったのですが、初めて自分から進んでやりたいと感じました。
これは、ジュニアテニスに当てはめると「親から進められて始めた」と「自分がプロの試合を見てやりたいと思って始めた」のでは、テニスに対する気持ちが全く違います。
自分から進んでやりたいと思ったことに関しては貪欲に取り組むはずです。
マイケル・チャンを目指して
当時中学生でしたが、親にテニスラケットとボールを買ってもらいました。ラケットに関しては、当時は今と違って情報も溢れていないので、スポーツ店でガットが張ってあるラケットを買ってもらった記憶があります。
それからは、近くのテニスコートで一人で練習する日々が続きました。近くのテニスコートは管理人もいないので、勝手に使っていました。(本当はダメですが・・・)
出来る日が自転車でテニスコートまで行き、暗くなるまで練習して帰る日々を送っていました。練習と言っても一人でやっていたので、サーブを打ったり、自分で手出しをしてフォアやバックハンドを打つことをしていました。
打ってはボールを拾いにいく、打ってはボールを拾いに行くを日が暮れるまで続けていました。
今、考えたらすごく非効率な練習をしていたんだなと思いますが、決して無駄では無かったと思っています。
一人で練習している日々が続く中、隣のコートで練習していた大人の方に声を掛けて下さり、一緒に練習や試合をしていただくようになりました。
知らない自分を一緒に練習して下さり、本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。
高校時代 ~練習に明け暮れる日々 高みを目指して~
全国レベルではないですが、高校は、県内ではトップレベルの高校に進学しテニスに明け暮れる日々が続きました。
私の地元は、ジュニアの選手は数名いましたが、軟式テニス上がりの人がほとんどでした。今は、ほとんどがジュニア選手で軟式上がりの人は少ないのではと思います。
同年代でジュニア選手がいたのですが、レベルは雲泥の差でした。その差を埋めるには練習しかありません。
運がいいのか、私の同期テニス部は練習大好きな人たちが集まっていました。
部活の時間以外にも、朝練に部活後の居残り練習、土日は午前中が部活で午後から21時まで1日11時間練習をしていました。
今、考えたらとんでもない練習量だったと思います。
平日は、朝自主練で2時間、部活で2時間、居残り自主練習で2時間とトータル6時間。休みの日は午前練が3時間、午後からの自主練で8時間とトータル11時間。
休みや試合の日などを考慮すると、年間にすると約2500時間です。
これは、ITF(国際テニス連盟)が推奨するジュニアテニスの練習時間で、高校生は1250時間になりますので倍の数字になります。
このぐらいしないとジュニアテニスとの差は縮まらないと私は思います。
練習時間はかなりの時間を行っていましたが、今考えると練習内容に問題があったと思います。
部活では、球出し練習は行いますが、自主練習では一切行っていませんでした。自主練習でやっていたのは、「ラリー」のみです。
仲間たちと許される時間はずっとラリーに明け暮れる日々を送っていました。
これが良かったのか悪かったのかは分かりませんが、ただ一つ言えることは、テニスが大好きでボールを打つのが純粋に楽しかったです。
あまりにもテニスに対して熱い想いがあるので、大雨の中、コートが水浸しでも練習をしていました。全くボールが跳ねないのに、相手が打った球を返せなくて本気で切れてラケットを投げて折ってしまったこともありました。
今考えたら跳ねないのは当たり前で、そんなことで切れるなよって思ってしまいますね(笑)
そんなこんなでテニスを始めて2年ちょっと経ち、3年生のインターハイ予選のことです。私たちのチームはほとんどが軟式上がりで、高校からテニスを始めた選手ばかりでした。
なんとか団体戦で決勝まで進むことができ、決勝の相手はジュニア出身の選手が3人もいるチームでした。S1、S2は別格で誰もが勝てない選手でした。
私はすべてダブルスに出ており、決勝でも勝ちました。S1が負け、1-1でS2にすべてがかかりました。
プレッシャーのかかる場面でありましたが、私たちのチームのS2はジュニア出身の当時2年生の選手でした。先輩たち(私たち)がインターハイに出場したいという気持ちは痛いほど分かっていたと思います。
結果はセットカウント1-2で負けでした。2年生の子もとても責任を感じていたようですが、よく戦ってくれたと思います。あの時のチームの団結力はすさまじいものだったと思います。
インターハイ予選で負けて落ち込んでいる中、すぐに地区大会がやってきました。地方大会で勝っても全国にはつながらないので、私たちはどこか気が抜けていたと思います。
しかし、監督の先生からの喝をいただき、もう一度チームで奮闘することを誓いました。
地区大会はどの県も強豪で私たちのように軟式上がりの選手ばかりいるチームはどこにもいません。ほとんどがジュニア出身でテニス歴もかなりの差があります。
1回戦突破後は、各県の優勝校と当たることになりました。どのチームもS1はずば抜けて強いので監督の采配もあり、S2とD1で勝ちに行く作戦を取りました。
S2はインターハイ予選で苦い敗戦をした2年生です。この選手が覚醒し、格上の選手に勝ち続けてくれました。
格上の学校との対戦が続く中の準決勝、相手のダブルス1は地区ジュニア大会18歳以下の優勝、準優勝をした人同士が組んだペアでした。
成績だけ見ると、私のペアは地区大会1回戦敗退でしたので、勝てる見込みはありませんでしたが、何が起こるか分からないのが団体戦でもあり、そこが面白いところでもあります。
監督の采配通り、ダブルス1の崩した方がいい選手を徹底的に攻める作戦で見事的中。
6-4、6-1でまさかの勝利でした。その勢いでS2の後輩も格上に勝利。
続く、決勝でもダブルス1とシングル2を勝ち取り見事優勝することができました。インターハイには出場できませんでしたが、その悔しさをバネに勝ち取った「地区大会団体優勝」は私にとって最高の思い出となりました。
練習してきたことが、最後に報われた気がしてやってきたことは、効率が悪いかもしれませんでしたが、間違いではなかったと確信しました。
テニスを始めて2年ちょっとで地区大会優勝ができたのも、常識から外れた練習時間があったからだと思います。
今の子ども達に同じようなことを求めているのではないのですが、圧倒的な差を埋めるには圧倒的な練習時間が必要ということです。
大学時代 全国レベルの壁
高校卒業後はテニスができる環境が整っている、関西1部リーグに在籍する大学へ進学しテニスを続けました。
周りは、全国レベルの強者ばかりでとても刺激を受けました。大学4年間、高校時代と同じように部活後は自主練習に励む日々を送りました。やはり、意識が高くテニスが好きな選手が多く、自主練習を取り組む人がほとんどでした。
個人戦ではシングル、ダブルスともに予選から全国レベルの選手が出ていることから、勝ち上がることが難しく悔しい想いをすることを積み重ねていました。
大学4年間では成績は振るわなかったですが、レベルの高い環境に身を置くことにより、自分も成長できたのではないかと思います。
なかなか勝てない中、4年間やり切ったことが今でも財産となり、いろんな事の原動力となっています。
20年以上の時を経て、想いは息子へ
大学卒業してから20年以上経ち、今は息子がテニスに夢中になっています。私のDNAを引き継いでいるので、センスがある方ではありません(笑)ただ、テニスに対してはいつも一生懸命に取り組んでいます。
周りは、先に上達していき置いて行かれているような感じがしていますが、成長スピードは人それぞれです。例えば、12歳以下大会で優勝した子が、14歳以下になっても優勝できるとは限りません。中には、急に成長する子もいます。
自分の子どもを信じて、出来る限りのサポートをし高みを目指してもらえたらと思います。願いとしては、私が成し遂げられなかった「全国大会出場」です。
まだまだ主体的にテニスに取り組んでいませんが、もっと上手くなりたいという気持ちが強くなってくると、自然と身についてきます。勝ちたかったら何をすればよいのか考えますからね。
私としては、マイケル・チャンのように最後まであきらめないテニス選手になってほしいと願っています。
長々と書きましたが、私のテニス人生のお話でした。
